映画感想:シン・ゴジラ ~日本を信じる日本映画~

ワクワクもんですね。

光光太郎です。


以前私は「シン・ゴジラ」の予告から一つの志が見えると書きました。「日本でしか作れない、最高の映画を作ってやる」という志です。

遂に公開された「シン・ゴジラ」を観た時、その志は確かに存在し、成し遂げられていることを確信しました。復活した日本製ゴジラ映画が、怪獣映画としてだけでなく、日本映画としても無類に面白い…これは間違いなく、2010年代を代表する、日本映画作品になるでしょう。

と言うわけで今回は、


シン・ゴジラ


のネタバレ感想を書いていきたいと思います。

■鑑賞後Twitter



■あらすじと解説

「ゴジラ FINAL WARS」(2004)以来12年ぶりに東宝が製作したオリジナルの「ゴジラ」映画。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の庵野秀明が総監督・脚本を務め、「のぼうの城」「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の樋口真嗣が監督、同じく「のぼうの城」「進撃の巨人」などで特撮監督を務めた尾上克郎を准監督に迎え、ハリウッド版「GODZILLA」に登場したゴジラを上回る、体長118.5メートルという史上最大のゴジラをフルCGでスクリーンに描き出す。内閣官房副長官・矢口蘭堂を演じる長谷川博己、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹役の竹野内豊、米国大統領特使カヨコ・アン・パタースン役の石原さとみをメインキャストに、キャストには総勢328人が参加している。(映画.comより引用)


■感想

1954年に公開された「ゴジラ」。特撮映画の金字塔にして、呪いでもある存在です。1作目の公開後、国内外問わず様々なゴジラ映画が作られてきました。しかし、私達受け手にとっても、作り手にとっても、ポップアイコンとなったゴジラのイメージがあるためか、どの作品も「初代ゴジラありき」なものとして映ってしまいます。


これまで日本で作られてきたのは「ゴジラ」の映画。

エメリッヒ監督が作ったのは「ゴジラという生物」の映画。

ギャレス監督が作ったのは「ゴジラという存在」の映画。

ならば庵野総監督達が作ったのは、「ゴジラ映画」の映画であると言えるでしょう。


そもそも、ゴジラ映画とはなんなのか?…ゴジラが登場するものか?着ぐるみやミニチュアで表現されているものか?怪獣同士が戦うものなのか?


「シン・ゴジラ」は、今一度ゴジラ映画というものを0から考え、再構築された映画でした。まるで初代ゴジラが作られた時の様に…。そこで目指されたのは、良いゴジラ映画ではなく、面白い映画でしょう。甘えを捨て去り、徹底的に拘り、最高の日本映画を作る。それが、「シン・ゴジラ」に貫かれていた、とても太い軸です。



■再構築したゴジラ映画

「シン・ゴジラ」で再構築されたゴジラ映画…それは「ゴジラに日本が立ち向かう姿を、その時代のリアルで描き、絶望と希望をエンターテイメントで示しきる」ことだと思います。次の4つの特徴から、それが分かります。


①リアルな映像で日本対ゴジラを見せる

「シン・ゴジラ」でのゴジラは、CGです。また、空撮された映像に合わせて、戦闘ヘリや戦車、電車、建物など、様々なモノがCGで描かれていました。これまでの日本ゴジラ作品は「ミニチュア特撮、着ぐるみ特撮の王道」という印象でしたので、この一報を聞いたときは衝撃でした。ハリウッドの大作作品と比較すれば、予算もスケジュールも微々たるものであるのは、「シン・ゴジラ」が日本映画である以上明白です。

しかし、それでもCGを選んだ…それも、特撮を愛してやまない庵野総監督と樋口監督によってです。それは「ゴジラ映画をリアルに面白く描くには、今ならばCGが最適だ」と判断したからでしょう。ミニチュアや着ぐるみで作るからゴジラ映画なんじゃない、ゴジラという虚構を魅せるのに最適な技術を使うのが、ゴジラ映画なんだと。これは、特撮が「ゲテモノ」と評されていた時代に、初代ゴジラを作ったクリエイター達の「怪獣が東京を破壊する姿をリアルに描くには、どうすればいいか?」という思考に敬意を払った、素晴らしいモノづくり精神であると思います。


断言します。この選択は間違っていなかったと。フルCGで描かれたゴジラと、空撮などによる実写映像、そして所々でミニチュアを使用した倒壊シーンなどが組み合わされた映像は、ミニチュアや着ぐるみ特撮では不可能な表現となっていて、今までに観たことが無い、リアルなゴジラ映画を作っていました。そんな本作の映像の魅力は、密度と分かりやすさ、そしてゴジラにあると言えます。

「シン・ゴジラ」では、とにかく映像の密度が凄まじいんですよ。例えばゴジラとの戦闘シーンでは、空撮の映像が多用されています。実際の過密都市東京を撮影した映像なので、情報量もリアルさも段違いでした。そんな「現実の東京」を舞台にして繰り広げられるゴジラ対自衛隊の戦いは、正に現実そのもの。銃撃や砲撃の破壊力も細かく表現されていて、これもまた密度が高い。私はこの映画で初めて、爆撃機の恐ろしさを痛感しました…。被害を受ける街や建物も「そう壊れるだろう」という描き方になっており、震災の記憶も新しい今に見ると、かなりキツいです。船舶が川にひしめき押し出される様子などは、津波の映像そのものでした。終盤での東京大破壊シーンの迫力と惨状の表現には絶句するのみでした。ヤシオリ作戦におけるビル倒壊描写も、CGだからこそ出来た超絶密度の映像であると言えるでしょう。


ここまで情報過多の密度にした理由は、現実を描き切るためだと思います。ゴジラという存在は嘘でも、ゴジラによって引き起こされる被害や事象は現実のものとして表現されていました。近年、大規模な震災を重ねて経験した今だからこそ、街が壊れるという姿をエンターテイメントの中で逃げずに、現実として描くことが必要だったのだと思います。

映画の内容に合わせて整理され意味づけされたフィクション映像ではなく、私たちの目が普段処理している膨大な視覚情報をそのまま映像にしているような、そんな印象を受けました。


この様な情報過多な映像ではありますが、分かりやすく楽しみやすい構図作りによって、煩雑な印象はありませんでした。インタビューを読むと、庵野総監督はピクセル単位で構図を指定していたらしく、画作りへの拘りは推して知るべきでしょう。

なぜ密度の高い、情報量過多な映像にも関わらず分かりやすいのか…それは位置関係を把握しやすく、広い視野で見る構図になっていたからでしょう。ゴジラとヘリが相対するシーン、戦車がゴジラに砲撃する場面を超俯瞰で映すシーン等が顕著ですね。画面の端から端まで使った構図であるにも関わらず、砲撃やミサイル等の軌跡によって、視線の誘導が巧みに行われていました。激しさやドラマチックなカメラワーク、構図ではなく、ドキュメンタリーやニュース映像の様に淡々と事象を映す撮影になっていたことも、分かりやすさの一因でしょう。


高密度の映像と分かりやすい構図作りによって、あり得る現実を直視させること。これがCGと実写のハイブリット映像の根っこにある指針だとするならば、そこへ全くの嘘であるゴジラを現実として描き、かつ、嘘としても描くこと…。この矛盾する2つの要素に、今回のCGゴジラは挑戦していたと思います。

まずデザインからして、今回のゴジラはかなり異様です。細部はこれまでのゴジラと全く異なるのに、全体のフォルムで見るとゴジラに見えるんですよね。フォルムそのものが異なっていたハリウッドのゴジラ2体とは異なるアプローチで作られた、新しいゴジラです。

ケロイドの様にも、マグマの様にも、筋肉の様にもみえる赤い皮膚…むき出しの歯…瞼の無い鋭い眼…異様に発達した足と異様に小さい腕…巨大すぎる尻尾…事前に明らかになった姿から初代ゴジラや大怪獣総攻撃のゴジラを思い起こさせますが、その2体とは異なり「こいつは本当に生物なのか?」と疑問を抱くほど、無機質な印象も受けます。しかし、CGで作られているはずの体には、着ぐるみやミニチュアが持つ実在感がありました。フィクションのアイデアを現実へ落とし込んだ雛形模型を準備して、そこからCGでリアルに描いているんですね。一見回りくどい手法ですが、これによって生物らしいゴジラではなく、現実にいそうな怪獣として、また、嘘である特撮怪獣としてのゴジラになっていました。デザインの時点で現実と嘘が混在していたわけですね。

そして劇中でその姿を披露するのかと思いきや…なんと陸上でのたうち回る超気持ち悪い黄色のゴジラが出現!血らしきものを吹き出しながら、むき出しの大きい目をぎょろつかせ、大地に身をこすりつけながら街を蹂躙するその姿は、痛々しくとも必死に生きようとする生物にも、文明を否定する悪夢的存在にも見えます。ただまぁ、正直、初登場した時はあまりの衝撃に爆笑してしまいました。その後ゴジラは進化を続けていき、事前告知の様な姿へと変わっていきます。


今作では、ゴジラがどんな生物でありどこが弱点なのかを、少ない手がかりを基に偏屈オタク軍団が解析を試みるシーンが無類の面白さになっています。平成ガメラシリーズ、特に2で顕著だった「怪獣を科学的に分析していく」プロセスの面白さ、カタルシスに満ちているわけですが、これによってゴジラと言う嘘が、現実味を帯びた存在、認識できる存在へと徐々に変化していくんですね。同時に、ゴジラにとってお馴染みの「放射能をばらまく」という特徴を始めとした怪獣王らしいスペックが現実の中に現れるという恐ろしさも、より一層際立っていました。


しかしいくらリアリティを持ってゴジラが分析され正体が明かされていっても、それはあくまでも物語上の話であり、映像で映し出される姿は嘘そのもの。現実の街に質感を伴った嘘がいる…という、奇妙な感覚を抱かせる映像でした。怪獣映画に限らず、CGや模型で描かれた空想上の物体が現実の街並みに登場するというのは、もう見慣れ過ぎた映像ですが、現実に嘘がストンといる不思議さ、恐ろしさを改めて味わえる映像だったんです。嘘なのか現実なのか、判断が曖昧になる中で容赦なく現実の街並みが、ゴジラに壊されていく…建物単位ではなく街単位で燃えていく景色…。しかし、この感覚は誰しもが、近年味わったことのあるものだと思います。震災や痛ましい事件の報道映像を見た時の、非日常が一瞬で日常を飲みこむ様を目の当たりにしたあの感覚に「シン・ゴジラ」で得られる感覚は非常に良く似ています。この感覚を抱かせんが為に、病的なまでのリアルさへの拘りと、そこへ嘘か現実か測りかねるゴジラを放り込んでいるのでしょう。

ゴジラとの戦いがCGで描かれたことによって、日本人にとって身近な光景を、ゴジラと言う存在が蹂躙する映像が出来上がっていました。ミニチュアや着ぐるみと言った「怪獣特撮の王道」ではなくCGを選んだことにより、ド迫力な映像は勿論ですが、ゴジラが街に現れると言ったお馴染みの映像へ、何層にも重なった意味を持たせていたんですね。この時代にゴジラを復活させること…それを考え抜かれて作られた作品であることが、映像を見るだけでも伝わってきます。



②リアルな物語で日本対ゴジラを見せる

①では映像が如何にリアルかについて触れましたが、「シン・ゴジラ」では政治家を中心にした作劇と、リアリズムを追求した演出によって、リアルな日本の物語になっていました。

今作で主人公となるのは、長谷川博己演じる若き内閣官房副長官、矢口です。庵野総監督達による綿密な取材によって収集された政府周辺の情報によって、政治家を中心にした「ゴジラが現れた時、政府はどう動くか?」という作劇が作り上げられていました。矢口以外の主要登場人物も殆どが役所の人間であり、徹底して行政側の視点で描かれています。そして今作の作劇における最大の特徴は、ドラマチックな物語ではなく、連続した事態のみを描いたドキュメンタリーのような作劇になっている点でしょう。ゴジラと戦うだけでなく、ゴジラを政府がどう認識するのか、どう発表するのか、どうやって自衛隊出動の理屈を作るのか、どう避難指示を出すのか…そもそもそれらを行うためには何が必要なのか…ゴジラ映画を問わず、日本の対応というものをここまでのディティールで描いた作品は、そう多くないでしょう。

この様な「怪獣という未知の危機が現れた時、日本はどう動くのか?」をシミュレートした映画には1984年版ゴジラや平成ガメラ等がありました。それらの作品群と比べると「シン・ゴジラ」は、一般人の視点を物語に入れていないため、表面的な感情ドラマ、人間関係ドラマが削除されており、最もドキュメンタリックな怪獣映画になっています。ゴジラという嘘以外は、全部本物にしてやる!という気概を感じますね。怪獣映画と言うのはどこか観念的な話が多くて眠くなるな…と心のどこかで感じていた私にとって、この路線はとてもありがたかったですよ…!ただリアリティを突き詰めた結果、非常に尖った爆笑ブラックコメディにもなっていましたね。日本ではこういった「体制を笑う」コメディは中々ないので、嬉しくもありましたが。


そして、庵野総監督が「つまらない部分もそのまんまに描く」と発言するように「前例の無い事態にはめっぽう弱い」「なんでも会議を通さないといけない」「法律が無いと動けない」といった、行政におけるいかにも日本的なシステムの不自由さもそのまんまに描かれていました。これによって「見当はずれな上に遅い政府の初動」「避難指示すら出せない東京都」といった、物語上のサスペンスが生まれています。同時に、そんな不自由な日本の中で現実的な手段を用いて、「仕事」として黙々とゴジラに立ち向かっていく人たちのドラマを、真正面から描くことにも繋がっているんですね。SFメカも超天才博士もオキシジェンデストロイヤーも他の怪獣もいない、私たちが普段生きているこの平凡な日本がどうやってゴジラ出現に対応するのかを逃げずに描いてくれます。


しかし、こういったリアルな作劇が行われる時は、得てしてその実態を知らないと何が何だか分からないお話になってしまうことが多いです。専門用語だらけの台詞に、手順の分からない仕事を延々見せられる映画を思い浮かべるだけで、眠気が襲ってきます…。「シン・ゴジラ」でも、台詞は長ったらしい専門用語だらけで法律や政治の話が多く、科学の深い話題もてんこ盛りな挙句に登場人物は全員超早口で喋るのですが、全く眠くならないんですよ。理解できない話をされても、何をどうしようとしているかが、演出によって分かる様に演出されているんですね。そもそも、全ての台詞の意味を理解させるテンポにせず、その人が話していることはこんな内容だろうなと、語句の意味ではなく話し方で意味を理解させる様になっていました。

その上、その場を観たことない人にも「その場はこうなっているんだろうな」と思わせてくれるんですね。私は政府での話し合いも自衛隊のやり取りも全く知らないですが、日本に根付いた価値観の中で行政のトップに上り詰めた人たちは、こういう話し方や話し合いをするだろう、これが現実なのだろうと、スッと受け止めることができたんです。つまり「シン・ゴジラ」では、現実を知らない人にも現実を想起させる工夫がなされているんですね。役所ではこう使われてそうだなぁという小道具使いが徹底されていることも、その一因でしょう。

ドキュメンタリーの様にリアルな政府のゴジラ対応を描きながら、政府の実態を知らない私達にも「現実っぽい!」と思わせてくれるディティールの数々によって、私たちは見たことも聞いたことも無いはずの「日本対ゴジラ」を、現実として受け止めることができたんですね。



③絶望を描き切る

ドキュメンタリーの様に現実を切り取った映画だからこそ、叩きつけられる絶望はより大きなものになります。「シン・ゴジラ」では、ゴジラによる絶望と、合理主義社会による絶望とが、一切の甘えなく描かれていました。

前述した通り、ゴジラは現実の街を容赦なく蹂躙していきます。第2形体時は全高が低かったこともあり、圧倒的な「何か」「災害」によって街と人が襲われていく様子がまじまじと映し出されます。マンションが襲撃されるシーンでは逃げ遅れた人が巻き込まれる姿をしっかりと映していましたし、破壊後に映される「靴」は、命あるものが消えたことを、嫌が応にも意識させます。終盤で死者を写真付きで報道するニュース映像でも、同じ嫌さがありました。そして長回しでの車吹き飛ばし前進によって、理解できない脅威が文明を破壊していく様を、逃げ場無く見せつけられます。

ゴジラの絶望に絶句するのは、何と言っても夜のシーン。暗闇に赤い肌を燃やしながら進む姿は、理不尽な暴力の権化にも、人間社会を憎むドス黒い存在にも見えます。そして米軍の攻撃によって触発されたゴジラは、背びれを紫色に発光させ、異形な口をあらわにして黒煙を放出。黒煙が街中に広まったのちに灼熱の熱線を放ち、街を焼き尽くす…かと思いきや、熱線は見る見るうちに収束して紫の放射熱線となり、遥か上空にいる米軍爆撃機を撃墜します。その後も続く米軍の攻撃ですが、なんとゴジラは背びれから複数の熱線を放出し、爆撃弾ごと米軍爆撃機を撃墜し、そのまま口からの放射熱線で東京を破壊しつくします。

放射熱線の前座に過ぎない熱線で東京の大地はマグマと化し、街並は燃え、東京駅周辺は放射能で汚染されてしまう…地獄絵図です。米軍の爆撃によって焦土と化した1945年の東京や、近年の地震災害、原発被害をどうしても思い起こさせる惨劇。第3形態の時に、逃げ遅れた老人2人に構わず攻撃を仕掛けていたら…等と考えてももう遅く、私たちは、起こってしまった状況をただただ観ていることしかできませんでした…。

こういった直接的な被害だけでなく、矢口をリーダーとする巨大不明生物特設災害対策本部が、ゴジラの人知を超えた能力を明らかにしていく過程でも、驚異の生物として絶望を与えていきます。「シン・ゴジラ」のゴジラは、真っ当な理屈でも、力でも、その存在全てで登場人物にも観客にも、容赦のない絶望を叩きつけるんですね。


しかし、そんなゴジラ以上に私達を絶望の底に叩き落とすのは、他ならない人類、合理主義で人類全体を考える西側諸国でした。他大陸への被害を防ぎ、アメリカの情報秘匿を隠すため、ゴジラに対しての熱核攻撃が国連で決定されます。確かに、ゴジラと言う地球規模の脅威を完全に抹殺するには、熱核攻撃によって焼き尽くす方法が確実かもしれません。この条件を飲めば、日本は世界各国から復興の援助を得ることが出来るようにもなっていました。合理的に考えれば、国連、アメリカの案を受託することが正しい選択でしょう。が、核を使うということは、ゴジラによる被害以上に東京を壊滅させることになり、日本の中心地へ長らく残り続ける放射能をばらまくことになります。何より、今一度、日本に原爆を落とすという事実そのものを、決して受け入れることは出来ません。しかし、熱核攻撃を使えば、ゴジラを消滅させる可能性は高くなる…。

合理的な考えによって叩きつけられる「熱核攻撃」という選択と、それをどうしても認められない日本人としてのジレンマ。攻撃のカウントダウンが進む中、どうしようもできない気持ちが渦巻くこの状況は、ゴジラ以上に切迫した絶望を感じさせます…

街を破壊するゴジラと、合理主義で切り捨てを要求する世界という、物質面と精神面でどうしようもない危機を叩きつけてくる「シン・ゴジラ」。こんな状況に対して、現実世界の延長線上である「シン・ゴジラ」の日本は、どこまでも日本らしい方法で立ち向かっていきます。



④ダメな日本と、日本の希望を示しきる 

前述した通り、今作では日本的システム、日本的考え方のダメダメさが痛烈なブラックコメディのように描かれていました。実際、頑固過ぎて柔軟に動きづらい体制のせいでゴジラの被害が大きく広がってしまったことは否めません。しかし、初動に当たっていた閣僚の方々は無能だったのではなく、日本と言う存在を存続させるために、日本のシステムの中で最善を尽くしてきた人達として描かれていたように思えます。話し合いの中でも議論が止まることは殆どありませんでしたしね。ただ、だからこそどうしようもなくダメだとも言えるのですが…。政府陣営だけでなく、避難誘導が出ても携帯で撮影をしまくったり、すぐにSNSやネットに書きこんだり、被害を出したゴジラを守れ!と深夜に官邸へ攻め寄ったりする民間人がいたりと、現実の日本にあるダメダメさがありありと描かれていました。(官邸前で抗議を続ける声を無視して寝る役人たちの姿も、かなりブラックコメディ色が強めでした)


そんな日本の「リアルな」ダメさ加減が次々と映し出されるのに対して、日本の日本らしい良さも示されていました。それは「仕事を黙々とこなすこと」と「人徳と協力」です。

矢口率いる巨災対のメンバーや自衛隊等、劇中の人物達は自らの仕事として割り当てられたこと、やるべきことを黙々とこなしていきます。何か個人的な思想があるとかではなく、国民のために働くことが仕事だから、そのために一途に頑張る…私たちの考え方の根っこには、仕事に務めるという意識が必ずあるはずです。これは社畜思想として悲観されがちではありますが、どんな絶望的な状況の中でも決して諦めず、コツコツと仕事をする姿には、胸が熱くなります。現実の問題は、大天才1人によって解決されるものではなく、その場にいる1人1人が仕事をすることで解決されていくのだということが分かります。

そんな対応も報われず、ゴジラと熱核攻撃による危機にさらされる中で、日本はそのどちらへも立ち向かっていくことになります。ボロボロになった日本に示される希望は、今まで日本が大切にしていた考え方である「人徳と協力」でした。各所へ頭を下げ、コネと繋がりで協力を求めていく様子は、どこまでも日本らしいものです。そして、東京で核攻撃は使わせない!という気持ちと仕事を通して繋がっていく役所と民間企業、そして日本を信じて協力してくれる米軍と世界各国の研究機関…日本の、日本らしいダメさを散々観た後に、日本がこれまで大事にしていた日本らしい精神によって危機に立ち向かっていく展開は、同じ日本人として感動を禁じ得ませんでした…。日本には確かにダメなところがありますが、でも、でも、それも日本なんですよね。そんな「ダメな日本」だからこそ、日本の良い点が育っていったんだなと信じられる物語でした。ここまでの段階で情報量とスピード感によって私達観客もボロボロにされているので、登場人物達とシンクロしてしまい、日本の希望の光が胸にくるのかもしれません…



振り返ると「シン・ゴジラ」は、リアルな映像で日本対ゴジラを見せること、リアルな物語で日本対ゴジラを見せること、絶望を描き切ること、ダメな日本と、日本の希望を示しきることによって、「ゴジラに日本が立ち向かう姿を、その時代のリアルで描き、絶望と希望をエンターテイメントで示しきる」ことを行っていたんですね。

そして、この再構築されたゴジラ映画に対して全力で立ち向かった役者陣の好演無くしては、「シン・ゴジラ」は成立しなかったでしょう。



■329人の役者魂

今作では総勢328人+1人という、大勢の役者さんが参加しています。それも、1人1人が主役をはれるような方ばかりであり、超豪華な日本役者映画にもなっていました。

ところがどっこい、「シン・ゴジラ」では私たちが普段触れるであろう演技や演出とは異なる方向へ、全力で向かっていました。箇条書きにするだけでも、

・全員が超早口&専門用語台詞ばかり

・超ドアップで顔を映す(化粧した顔とかではなく、毛穴まで見えるようなリアルな顔)

・身振り手振りといった動きのある芝居はほぼ無し

・身の上を語るシーンはほぼ無し

・喋らずに演技だけで表現するシーンはほぼ無し

・大体のシーンが話し合いのみ

・主役級以外は登場時間が5秒くらいしかない

と…感情の起伏をゆっくり楽しむとか、余韻を残すことを全く考えていないんじゃないかと思えるような描写の数々です。これらを考えても、今作において作為的なドラマチックさが排除されていることがよく分かります。


「シン・ゴジラ」で目指された演技、役者の演出とは、ここでもやはり、リアルさなのでしょう。そのリアルさは情緒的な台詞ではなく、それぞれの役者の顔と、これまでの経歴、短いながらも全力を感じさせる迫真の顔&台詞演技によって表現されていました。つまり、役者個人の人生と、役者としての技量が合わさったものが、今作での登場人物達なんですね。前田敦子に至っては「世間が前田敦子に対して抱いているイメージ」を最大限活かし、茶化したような人物として、短い時間ながら存在感を発揮していましたし、平泉成さんは正しく平泉成であり、また、平泉成という役者が演じてきた役そのものの様な人物として描かれていました。

シンプルに言うと、登場人物の顔を見た途端に「この人物はこういう奴だろう」「こいつは今こう考えている」と分かる様な演技と演出になっているんです。だからこそ、5秒も出ていない登場人物達1人1人の人生が見事に切り抜かれていて、それらが早いスピード感で積み重ねられていくことにより、フィクション物語と言うよりも現実物語が構築されていきます。「シン・ゴジラ」は、328+1人分の役者魂が集結した、骨太な日本役者映画だと言えるでしょう。真似したくなる台詞が多いことも特徴的ですね。

…ところで、先ほどから+1人という表記をしていますが、これは今作のゴジラのモーションキャプチャーを務めた方の事を指します。それが何と、野村萬斎!ゴジラにも演者の魂が入っていたのですね…着ぐるみ特撮への敬意を感じます。もしや、第2形態などのモーションキャプチャー等も務めているのでしょうか…メイキングが楽しみですね。


ここまで誠実な作り手として庵野総監督達の手腕を評してきましたが、忘れてはいけないのは彼らが生粋の「オタク」であるということです。それも、分かっている上にどこまでも拘るオタクです。



■オマージュと遊び

「シン・ゴジラ」では、特撮作品等に対する溢れんばかりの愛がオマージュという形でも表出していました。私が気付いたものを、次に箇条書きにしていきます。

・冒頭、わざわざ昔の東宝ロゴを入れる

・冒頭からタイトルシーンまでの音楽の流れが初代ゴジラと同じ

・ファーストシーンが初代ゴジラと同じ構図

・1984版ゴジラを思わせる政治劇

・対戦ヘリが登場するシーンでかかる音楽のイントロがウルトラマンにそっくり

・モノラルだろうがぶち込まれる伊福部昭音楽

・ゴジラの造形は初代ゴジラの要素がふんだんに盛り込まれている

・背びれの放射熱線がどう見てもイデオン

・燃え盛る東京にたたずむゴジラの構図が初代ゴジラと同じ

・ゴジラとの決戦が、初代と対照的になっている

・薬は飲む方が効く

・散々壊されてきた電車や建物でゴジラに立ち向かう様子

・音楽でゴジラ史を遡るエンドクレジット

恐らく、これ以上にオマージュは存在するでしょう。特撮作品に限らずアニメや日本映画にもオマージュ元がありそうです。ただ、その描き方があまりにも愛に溢れすぎていて、気付いたときに笑ってしまうのですが(笑)。


さらにオマージュだけでなく、遊びに見えるような演出も多かったんです。しかし、どれもこれも無意味なものではなく、意味のある、作品になくてはならない遊びだったと言えます。

・頻繁に流れるエヴァの音楽

・緊急記者会見でもアニメを流す12チャンネル

・ゴジラと言う意味の手話

・前半におけるコメディの様な編集

・カップ麺

・片桐はいりの片桐はいり力

・無人新幹線爆弾、無人在来線爆弾

本当はもっともっと遊びの部分があったと思うのですが、とりあえず思い出せる範囲で…。


再構築したゴジラ映画、329人の役者魂、オマージュと遊び…これらが混然一体となり、どれ1つとしてかけても、「シン・ゴジラ」という作品は成り立たなかったでしょう。


オタク中のオタクである庵野総監督達ですが、今作は決してオタクのおもちゃになっているわけではないのです。固定観念に囚われることなく、ゴジラ映画を今一度作り上げるという拘り、ヒットする日本映画を作るという気概に満ちていました。「シン・ゴジラ」は、日本映画史で語り継がれる傑作となると思います。

ありがとう…本当にありがとう!「シン・ゴジラ」スタッフの方々!!!!



■欠点

ここまでは絶賛一辺倒でしたが、今作は少なくない、そして小さくも無い欠点がある作品です。どこをどう見ても普通の映画ではないので当たり前なんですが…。全部で4つほど、明確な欠点があると思います。


①安いCG

今作におけるCG描写は、かなり高いレベルのモノであったと思います。それはゴジラや戦車、ヘリ、終盤の建物のCGを見れば納得の部分でしょう。しかし、時間が無かったのか、明らかに「安い」と感じてしまう部分もありました。

冒頭でのトンネル崩壊において落ちてくる瓦礫やゴジラの血は、がっかりするほど安さを感じるものでした。しかもかなり序盤の方に見せられるので、今作のCG技術を疑うような空気を作ってしまったことは否めません。その後に現れるゴジラのしっぽのCGも、確かに気持ち悪い嘘としての表現と言えば納得も出来ますが、パッと見の質感の安っぽさにばかり目が行ってしまいます。

その後も無人新幹線爆弾、無人在来線爆弾等で若干の安さを感じますが、ここでは画の迫力とアイデアそのものが素晴らしいのであまり気にならないんですね。やはり冒頭も冒頭であのレベルのCGを見せてしまったことが、作品全体のCGイメージを落とした原因だと言えるでしょう。


②すべてを台詞で説明

前述した通り、今作ではとてつもない量の台詞があり、ゴジラ登場時以外は常に誰かが喋っていると言っても過言ではありません。そういった作劇として素晴らしいモノになっていることは確かなのですが、映像で見せて欲しい部分まで全て説明台詞で済まされてしまうため、物語上の燃え上がりどころにおける「タメ」が不足しているように感じます。また、物語の核心や良い所も全て台詞で言ってしまう上に、やたらとハキハキ強調して喋る部分もあり、アニメっぽく見えてしまう箇所も多いです。日常生活で「福音」とか「覇道」とかは使わないと思うんですよ…。

画で見せるようなシーンがあると途端にフィクション味が増してしまう危険はありますが、せめて終盤に向けた準備描写では、民間企業側が役所と協力する様子、米軍隊員からの協力の申し入れ等を描いて欲しかったところです。


③終盤における「死」の描写不足

物語序盤におけるゴジラ進行時には、人がゴジラによって蹂躙されていく場面が印象的になるような映像になっていましたが、終盤における夜の襲撃やヤシオリ作戦時には、そういった描写はかなり控えめになっていました。被害を想起させる様な流れにはなっているのですが、ゴジラの熱線によって焼かれる人々や、最終決戦で「仕事」に向かって命を落としていく自衛隊の面々等を描いていないんですね。現実を逃げずに表現するというのなら、ほんの少しでもいいので、終盤でも直接的な「死」の描写、若しくは「死」を感じさせる演出が欲しかったところです。ドラマチックさを排除するあまり、現実の痛みを排除しては、今作が目指そうとしていた現実を映し出すことは出来ないのではないでしょうか?


④音楽がオマージュ多し

今作では、ゴジラ音楽を作った伊福部昭の楽曲や、エヴァンゲリオンに似た音楽など、他作品を思い起こさせる音楽が多く使用されています。そのため、劇中何度も元になったものをイメージする時間が発生してしまい、「シン・ゴジラ」を観ているんだという感覚をブツ切りにされてしまうんですね。伊福部昭音楽に至ってはモノラルらしいので、かかった瞬間違和感が…。確かにオマージュ音楽等は燃えるのですが、それはあくまでも元作品ありきなものです。「シン・ゴジラ」では「シン・ゴジラ」の音楽で全編通してもらい、新時代のゴジラ映画体験を提供して欲しかったですね。




■超個人的感想

面白かった点

①Windowsの日本とMacintoshのフランス

日本の役所が使用するパソコンは全て厚めのWindowsでした。それに対してフランスの研究機関はMacintoshを使用しています。こういった小道具使いで色々な違いを表現されると、何故だか無性に楽しくなるんですよね(笑)。因みに高橋一生演じるオタクもちらっとMacintoshを使っていましたが、私物なのでしょうか…。


②真似したくなる台詞の多さ

③無人在来線爆弾

声に出していいたい日本語ですよねぇ…。あと、無人在来線爆弾が並んで突撃していく様子が、スーパー戦隊シリーズでのメカ集合の構図に似ていたのも面白い部分でした。


残念な点

①英語の使い分け

劇中で石原さとみが英語を使うシーンとそうでないシーンがあるのですが、あれはどう使い分けられているのか…。鑑賞中ずっとノイズになっていました。英語自体はそんなに気になりませんでしたが。


②折り紙の意味

牧元教授が残した紙を折ることで、ゴジラに秘められた秘密を解き明かすことが出来たのですが、何故解き明かせたのかが全く分かりませんでした…。分析の過程をすっ飛ばして結論が述べられるので、折り紙になんの意味があるのかが謎なんですよね…。立体にすることで何かが分かるのでしょうが、何が分かるのか…。





何度も言うように、「シン・ゴジラ」は日本史に残る映画になるはずです。今作以降で日本の物語作りに「日本を描くこと」という革新が起こるかもしれません。何より、今、劇場に日本のゴジラがかかっているという事実が、ただただ嬉しい…。もう3回観ていますが、観られるだけ劇場で観ていきたいと思います。


日本映画史の転換点、最高のゴジラ映画を、今是非劇場でご覧ください!



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特撮展示会のレポート記事。写真盛りだくさん。

シン・ゴジラ大好き同士による超濃密な語り120分。

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