映画感想:聲の形 ~人間賛歌~

ワクワクもんですね。 光光太郎です。 


 今回は漫画から映画化された作品である


 聲の形 


 の感想です。


原作は未読でしたが、本当に素晴らしい映画でした。


 ■あらすじと解説 

「週刊少年マガジン」に連載され、「このマンガがすごい!」や「マンガ大賞」などで高い評価を受けた大今良時の漫画「聲の形」を、「けいおん!」「たまこラブストーリー」などで知られる京都アニメーションと山田尚子監督によりアニメーション映画化。脚本を「たまこラブストーリー」や「ガールズ&パンツァー」を手がけた吉田玲子が担当した。退屈することを何よりも嫌うガキ大将の少年・石田将也は、転校生の少女・西宮硝子へ好奇心を抱き、硝子の存在のおかげで退屈な日々から解放される。しかし、硝子との間に起こったある出来事をきっかけに、将也は周囲から孤立してしまう。それから5年。心を閉ざして生き、高校生になった将也は、いまは別の学校へ通う硝子のもとを訪れる。(映画.comより引用) 


■概要 

私の感想へ行く前に、的確にテーマに触れている記事を紹介させてください。端的にまとめられているので非常に読みやすいです。



もともとこの映画は全く意識していませんでした。精神的に辛い内容をアニメという形で戯画されると、辛さの本質が鋭いナイフの様に心に突き刺さるため、中々立ち直れないんですよね…。しかし、エグいエグいと噂になっていたので意を決して鑑賞してきました。するとまぁ…確かにエグみは強かったですが、何よりも人間の素晴らしさ力強さが示された内容だったため、清々しい気持ちで鑑賞を終えることが出来ました。 

「魂震わす人間賛歌」としての太い軸が、一本通っていたんですね。その軸は「コミュニケーションの難しさと素晴らしさ」「必死に足掻くキャラクター達」「映画的な映像」という要素で構成されていました。


 ■コミュニケーションの難しさと素晴らしさ 

「聲の形」では主人公である石田を筆頭に様々なキャラクター達が登場しますが、彼らは上手く人と付き合うことが出来ません。それは変えることの出来ない自分の性格のせいであり、障害のせいであり、周りの環境のせいであり、過去の出来事のせいでもありました。

 彼らは何かをきっかけにして諦めどころを見つけ、自分の尺度でコミュニケーションを行っています。しかし、彼らなりの尺度で生活していても、いや、彼らなりの尺度だからこそ些細な事をきっかけにして断絶が起こってしまう…それは繋がりも然りです。

 上手く人とコミュニケーションすることが出来ない…ふとしたきっかけで起こる繋がりと断絶…そんな誰にでもあることが石田の物語によって戯画化され、強調されているのが「聲の形」という作品でした。 



 石田は小学生の頃行ったいじめが原因で孤立し、5年間もの間自己嫌悪し続けてきました。いじめを行った自分、母親に迷惑をかけてしまった自分という存在の否定が重なり、それが他人の拒絶へと繋がって、人の顔をみて話す事すら出来なくなっていたんですね。母親にもそのことを打ち明けられず、遂に自殺未遂まで行ってしまいます。



 序盤の舞台となる小学校時代では、その環境や年代特有のコミュニケーションのやだみがハッキリと描写されていて、精神的にかなりきついです。私が最も辛かったのは、小学校という閉じた世界での「意思を無視した空気感」ですね。まぁ教育機関はどこも似た様なものでしょうが、特に小学校では個人の意思や物事の本質ではなく、表面上の事だけで判断されて世界が動いていきます。深い思考や話し合いという術を子供達が知っているはずもなく、しかし大人たちは面倒ごとを嫌って偏見と力によって即時解決を目指す…小学校は理性や本性で築かれる場ではなく、短い思考で行われた日常の積み重ねで築かれている世界なんですね。だからこそ、本音ではない大きな声や陰口によって形成された日常では、小さなすれ違いが大きなうねりになってしまいます。 本音ではなく建前や理性で覆い隠した意見が横行する小学校での様子は、日本的コミュニケーションの暗部を見せつけられているようです。

 いじめられる西宮硝子に関しても「言葉を上手く話せない」という痛烈な描写によって「この子とは関わりたくないかも…」と思わされてしまい、石田や植野達が通常のコミュニケーションではなくいじめに及んでしまうのも致し方ないか…と、残酷にも感じてしまいます。表現に全く逃げがありません。 

孤立後の描写は物語然としていますが、いじめという題材を扱って強調しているだけで「過去に犯した過ちを後悔し続ける」「自己嫌悪」「コミュニケーションのフィルターがけ」等、誰もが経験したであろうことが描かれています。



 生きる意味を見いだせない石田でしたが、いじめていた西宮硝子との再開や永束との出会い等、ほんの少しのきっかけと勇気で訪れた出会いを通して、石田は人とコミュニケーションを取り始めていきます。死を決意するほどに自分を嫌悪し続けてきた彼にとって、どんなに嬉しかったことでしょうか…。彼の行いが自己満足の贖罪であったとしても、彼の世界は少しずつ広がり始めていきます。

 これは西宮姉妹も同じでしょう。硝子は石田との再会を機に小学校時代の友人や新しい友人と出会っていきます。それだけでなく、硝子は石田に告白しようともしました。健常者らしく振る舞うことに専念するあまり、その試みは空振りに終わってしまうわけですが…。 妹の結弦は姉を守るためだけの世界で生きていましたが、石田との交流を経て多くの人と関わっていきます。彼らの世界もまた、確実に広がっていったのです。 



 今までミクロだった石田の世界が小さなきっかけとほんの少しの勇気の積み重ねでどんどんマクロになっていく様は映画的快感を産んでおり、それが結実する遊園地でのシーンは多幸感に満ち溢れていました。その小さなきっかけと言うのが、本当に些細なコミュニケーションの積み重ねでもあって、人と人との繋がりが産まれていく喜びが上手く表現されていたと思います。顔にかかった×が取れていくという、触覚に訴えるような映像だったことも良い工夫だと思います。 



 しかし、繋がりが広がると、その分難しくなるのが人間関係というもの。ほんの少しの噂話から石田の過去が明らかになり、橋において友達との断絶が起こってしまいます。 それぞれが本音ともなんとも言えない自分勝手で刺々しい気持ちをあらわにしていき、壊したいわけでもないのに自ら発した言葉で繋がりを破壊していきます。その口火を切り、誰よりも刺々しい非難を行ってしまったのは、他でも無い石田です。彼は結局、繋がりを自分から壊してしまった…。 触れたくない話題について話すだけでも辛いのに、それによって自分の浅ましさが露呈していってしまう…言いたくもないことを少しずつ言ってしまい、それが重なって不協和音となり、大きく反響していく…修羅場です。石田も嫌われたくないと思ったのか、自分から嫌われにいくような発言をしてしまいます。



 今作において最も痛々しいのは、この橋のシーンでしょう。しかし同時に、彼らが本気でぶつかったコミュニケーションの機会であるとも言えます。刺々しくとも本音を上手く言えなくとも、彼らは必至で自分を伝えようとします。それが恐ろしい程に不器用なのですが、そこに「伝える」ことに関する諦めは無く、誰もが全力でコミュニケーションを取ろうとしていました。そこに救いがあるからこそ、私達観客もこの続きを追ってみたくなるんですね。 



 その後、完全に迷走気味となった石田は硝子やその家族と夏休みを過ごし、確執があった硝子の母親ともコミュニケーションをとっていきます。対して硝子はどこか気落ちしている様子で…なんと飛び降り自殺を謀ります。自分が石田を不幸にしていると感じていた硝子は、自殺することで壊れてしまった石田と友達の関係を修復しようとしていたのでしょうか…。間一髪のところで石田が助けますが、反対に自分が転落してしまい意識不明の重体となってしまいます。



 硝子もまた、自己嫌悪を重ねていたのでしょう。小学校時代にも自殺未遂を行っていたことが伺えるので、もともと自分への値踏みが極端に低かったのでしょう。しかし自殺という行為は彼女を守るために生きてきた結弦や母親、祖母の気持ちを蔑ろにすることであるとまで考え付かなかったのでしょうか…それとも、家族にまで迷惑をかけていると思っていたのか…。 



 しかし、この一件をきっかけにして再び繋がりが産まれていきます。石田の母親と硝子の母親が5年ぶりに再会したことに始まり、硝子の母親と石田を看病する植野等、確執を持つ人物達が出会って「本音で」コミュニケーションを行っていきます。そして硝子は石田の見舞いに来た永束と出会い、彼にとって石田が親友であることを「本音の対話」によって知ります。

このことをきっかけにして硝子は「自分が壊したと思っていた」石田の友達と会う決心をし、川井や真柴、佐原、植野とも真正面から向き合いました。石田と結弦の心の距離を暗喩していた傘が、植野と硝子のやり取りでも使われているのが良いですね…。 意識不明状態から復活した石田は硝子と対面し、面と向かって話し合います。初めていじめの事を謝罪し「君と話がしたかった」と、今まで言えなかった本音をぶつけます。

 後日、石田は硝子と一緒に高校の文化祭へ行きます。他人の顔を見ることが出来ず会話も聞けない石田ですが、硝子はそんな彼を助けつつ石田の文化祭を回ります。そして、橋で断絶していたはずの友人達と会い、自らの不器用さに必死に抗いながらコミュニケーションを行い、向き合っていきます。そして石田は、永束にとって自分は親友であること、川井が髪型を変えたこと、真柴が変わらず微笑みかけていること、植野が手話を覚えたこと、自分の母親と硝子の母親が仲良くなっていることを知っていきます。

石田は今まで聞くのを避けてきた周囲の音を聞き、前を向き、世界の広さに涙を流しながら、物語は終わります。 



 決定的な断絶と消失から、それぞれのキャラクター達は少しずつ本音をぶつけ、寄り添い合い始めたんですね。どうしようもない人間性を抱えたままでも、ほんの少しでもいいから自らの意思で近づいていく。植野が手話を通して硝子とコミュニケーションを取った姿や、迷いつつも会いに来た佐原の姿に、それが良く表れていると思います。 


 「聲の形」はエンターテイメント性を優先したドラマチックな物語では無く、現実と地続きの発想で作られた物語です。起こった出来事のほとんどが、環境や自分自身の性格、人生、他人に対して何重にも重なってきた諦めと、残酷な偶然によって引き起こされていたことからも、それは明らかでしょう。作中で起こる精神的にキツい場面や袋小路の思考は現実にも起こり得ることであり、私達観客は否応なく「自分自身の人生」と向き合わされます。逃げ場のない石田やキャラクター達の状況と自分とを、重ね合わせてしまうんですね。 


今作はそこに、ドラマチックかつ現実的な「個人の小さな勇気」が入り込むことで、いじめや障害者を扱ったタブー作品としてではなく、個人が問題を抱えつつもコミュニケーションへ向き合っていくという作品になっていました。今作で最も石田を救った人物であると言える永束との出会いでも、硝子へ会いに行く決心をしたのも、結弦の心を開いたのも、石田の「小さな勇気」によるものです。この勇気を振り絞るために彼がどれだけ自分自身と向き合い、葛藤したことか…。「小さな勇気」によって昇華された出来事は点で見ると本当に些細なものですが、これが線になることで彼の閉じられた世界が広がっていくんですね。 

これは石田だけでなく劇中に登場したほぼ全てのキャラクターに言えます。彼らもまた「諦めと偶然」によって引き起こされた出来事に対して「小さな勇気」を持って立ち向かい、もう一度コミュニケーションを取るんですね。 しかしこれは、彼らがフィクションのキャラクターだから出来ることでしょうか?いや、そんなことはありません。私達観客も、自らの人生の中で同じような経験をしているはず、そして、何度でも行うことが出来るはずです。


例え償いきれない罪を背負っても、変えられない人間性に絶望しても、分かり合えない他人に失望しても、自らが「小さな勇気」を振り絞ってコミュニケーションを行えば、何度でも世界は広がるんだと。そしてそれは、本当に小さな一歩だけど、とても感動的なことなんだと。自分自身の人生と向き合わされる辛い物語だったからこそ、こういった力強いメッセージを素直に受け止めることが出来ました。 


「聲の形」はどうしようもなく絡まった現実の物語だからこそ、難しさを抱えてコミュニケーションを行うことの素晴らしさがストレートに伝わり、魂を揺さぶられる傑作になっていたんですね。



 ■必死に足掻くキャラクター達 

「聲の形」は現実的物語であると言いましたが、それを印象付けるのは何と言ってもキャラクター達の葛藤です。彼らにはフィクションのキャラクターとしての逃げ道が殆ど無く、現実の人生と同じように逃げ場のない状況に対して必死に抗っていました。ここでは次のキャラクター達の足掻きを、一人ずつ追っていきたいと思います。

・  石田将也(主人公 ツンツン頭)

 足掻き:いじめの過去と自己嫌悪 

・西宮硝子(聴覚障害者 薄茶髪) 

 足掻き:聴覚障害と自己卑下 

・西宮結弦(カメラ 黒髪短髪)  

 足掻き:姉と家族への思い 

・永束友宏(デブ 変な髪型)

  足掻き:本音過ぎるコミュニケーション

 ・植野直花(美人 黒髪ストレート)

  足掻き:正しい自分と素直になれない自分 

・佐原みよこ(そばかす クセッ毛) 

 足掻き:自分と他人へのコンプレックス 

・川井みき(メガネを取ってしまった クリーム色) 

 足掻き:純粋な社会正義感と悪意

 ・真柴智(チャラい オレンジがかった茶髪)

  足掻き:部外者 



 ・石田将也(主人公 ツンツン頭)

  足掻き:いじめの過去と自己嫌悪 

そもそも小学校時代に行ったいじめにしても、彼にとっては上手くコミュニケーションを取れないことからの足掻きだったわけですが、それが原因で5年間もの間後悔と自己嫌悪に苦しむことになります。その果てに自殺未遂まで行いますが、彼は逃げ道の無い足掻きを経て、誰よりも優しい人間になったのではないでしょうか?過去の出来事によって歪んだ形であっても「成長」若しくは根っこにある人間性へ無意識に触れて優しくなったからこそ、永束や結弦は彼と友達になれたのでしょう。 彼は逃げ場のない自己思考の中で足掻きつづけました。人は間違いを犯すこともあるが、それと向き合って前を向くことは出来る…向いた先には世界が広がっているという、シンプルで難しい、だけどもそれが人間と人生の素晴らしさであるということを体現したキャラクターになっていたと思います。 


 ・西宮硝子(聴覚障害者 薄茶髪) 

 足掻き:聴覚障害と自己卑下

 彼女は先天性の聴覚障害を持ち、耳が殆ど聞こえません。その為健常者の様なコミュニケーションを取ることが出来ず(健常者でもまともに行えている人物はいませんが…)小学校ではいじめに合ってしまいます。公式サイトで『コミュニケーションの困難や失敗を日常的に経験してきたせいで、他人との摩擦を避けるため、愛想笑いが癖になっている』という記述があります。愛想笑いや「ごめんなさい」が癖になっているのを見ると、他人から拒絶される事や自らが拒絶してしまうことを避けるあまり、当たり障りのないことしか言わない、諦めを前提とした尺度を作っていることが分かります。こんな私に強い感情を抱いてくれる人なんかいない…心のどこかでそう思っていたのでしょう。だからこそ、いじめという形でも強いコミュニケーションをとってきた異性である石田を好きになってしまったのかもしれません。逆にいじめられるように石田に対して「頑張って」と言いながら取っ組み合いの喧嘩をしたのも、彼女なりの「本気のコミュニケーション」だったと言えます。 

また、硝子は聴覚障害を持つ自分を徹底的に卑下している節があります。小学校時代の音楽の授業で必死に声を出す様子や、健常者であるかのように振る舞って石田へ告白を行うことからも、それを読み解くことが出来ますね。その自己卑下の行きつく果てが、二度の自殺未遂でした。恐らく二度とも、石田に迷惑をかけてしまったと思いこんでしまった為でしょう。自分が死ぬことで深く悲しむ人がいることを想像することも出来ずに…。 劇中で植野に指摘されるように、彼女は負の感情をぶつける様な、本気で行うコミュニケーションをとるつもりは無いのでしょう。そんな彼女が唯一本気でぶつかっていったのは石田でした。そして、その石田が勇気を振り絞って作った友達と再度出会い、復活した石田の全力のコミュニケーションを受けます。本気で自分と向き合ってくれた石田の為にも、少しずつ自分を好きになり、摩擦を恐れないコミュニケーションを取り始めていくことでしょう。植野に対して「バカ」と手話を返したシーンに、彼女の足掻きによる成長が見て取れます。

 意思を伝えるための様々な障害があるからこそ、正も負も含めたコミュニケーションを行っていく…これもまた、点ではなく線で生きる人間の素晴らしさでしょう。 


 ・西宮結弦(カメラ 黒髪短髪) 

 足掻き:姉への思い 

彼女は自己卑下を重ねる姉を心配するあまり、他者と自分への拒絶を行ってしまいます。姉の周りには他人を寄せ付けず、自分の事を顧みないその姿勢には痛々しさがありました。その強張った態度を崩すきっかけを作ったのは石田、そして永束でしょう。彼らの何気ない優しさに触れていった彼女の世界は、確実に広がっていきました。 姉の為に足掻きつづけた彼女も、今後は少しずつ自分の為に他者とコミュニケーションを行っていくことでしょう。 


・永束友宏(デブ 変な髪型)  

 足掻き:本音過ぎるコミュニケーション 

彼は今作において、最も本音でコミュニケーションを行っていた人物でしょう。親友である石田の為に行動し続けた彼がいたからこそ、彼やその周りの人物達の世界が劇的に動いていったことは確かです。もしかしたら、自分の為に行動してくれた石田に憧れて、自分を変えるための努力をし続けた結果なのかもしれません。ただ、あまりにも素直に本音を言ってしまうため、良く伝わっていない様でした。 それでも諦めずに本音を言い続けたことで、硝子や結弦、石田の心に影響を与えていきます。常に真正面からぶつかり、全身で気持ちを表現する彼の姿は、ある意味で理想的なコミュニケーションの形なのかもしれませんね。


 ・植野直花(美人 黒髪ストレート) 

 足掻き:正しい自分と素直になれない自分 

恐らく今作中で最も客観的な視点を持っていたのは彼女でしょう。他人や自分や環境に対する理解力があり、それを的確に伝える能力もあります。持って生まれた美貌や才覚もあり、客観的に見れば恵まれた人物だと言えます。 しかし、それらの能力は結局彼女に対して恩恵を与えることはありませんでした。客観的に見て正しいことや、その場の空気を読んだ行動を取れたとしても、それが自分の幸せに繋がることはなく、むしろ自分自身を傷付けてしまいます。理詰めで正しいと思っても、それを言ってしまう自分を嫌っているのでしょう。それを石田に指摘されたことが、彼女にとってどれほど辛かったことか…。誰よりも本気でコミュニケーションを行い、足掻きつづけた人物であると言えるかもしれませんね。


 ・佐原みよこ(そばかす クセッ毛)

  足掻き:自分と他人へのコンプレックス 彼女は小学校時代にいじめられていた自分にコンプレックスを抱き、変わる努力を続けてきました。そして、いじめた張本人でもある植野や硝子をいじめていた石田に対しても、苦手意識を抱きながらもコミュニケーションを取っていきます。高校生になってオシャレな服を着こなしている姿やジェットコースターでの会話を見ても、それは明らかですね。元々素直な頑張り屋なのかもしれません。 

足掻いた結果形を持って変われた彼女でしたが、橋における断絶を見るに、やはり苦手な相手とのコミュニケーションは迷いながら行っていた様子でした。その結果石田と植野、間接的に硝子を拒絶してしまいます。

しかし、彼女も最後には苦手意識に向き合いながら、同じく他者との関わり合いに怯える石田と歩み寄っていきます。 足掻きとその結果が非常に分かりやすく適度な軽さな為、一番応援しやすいキャラクターでした。 


・川井みき(メガネを取ってしまった クリーム色)  足掻き:純粋な社会正義感と悪意 彼女は植野から指摘されるように、自分を守るための行動を第一に取ります。それは社会的な善行であり、その環境の中で自分が良く見られるように振る舞うことでもありました。ぶりっことも受け取れる声で個人の気持ちを無視した綺麗ごとを喋りつづける彼女には、正直嫌悪感を抱きました。 彼女が意識的にせよ無意識的にせよ行っている社会正義は、その名の通り社会的に見れば正しいことであり、大多数の誰もが頷くことです。しかし、だからこそ余計に悪意を感じてしまいます。

ただ、これは誰しもが行っていることでしょう。彼女の場合、それが人間性の奥の奥まで染み付いているというだけです。 文化祭において彼女は、髪型を三つ編みに戻して石田と向き合います。女子が髪型を変えることには、少なからず理由がある…彼女は、例えこの瞬間だけでも、社会的に良く見せることではなく石田とコミュニケーションを取ることを選んだのでしょう。形から入るのも不器用ですが、他人の視線を気にする彼女がここまでするということで、その本気さが伺えます。


 ・真柴智(チャラい オレンジがかった茶髪) 

 足掻き:部外者

 彼は小学校時代における石田たちの同級生ではありませんでした。劇中での描かれ方もぞんざいで、ぽっと出てきて石田と友達になり突然去っていった様に見えます。ですが、現実において何でもかんでも関係や因縁を持った友達ばかりではないはずです。突然現れて突然興味を持ち、知らなかった一面を知って拒絶し、また仲直りする…そんな普通な、軽い友達関係を築ける相手として、真柴は登場するのでしょう。彼がどんな足掻きをしたのかは全く分かりませんが、恐らく軽く考えているのではないでしょうか。でも、それはそれでいいのだと思います。それもまた。コミュニケーションの一つの形ですから。



 振り返ってみると、それぞれが自分の性格や過去の出来事と向き合い、どうしようもないことに足掻き続けていたことが分かります。何度も言うように、今作では物凄くドラマチックな出来事やフィクショナルな奇跡は起こりません。それどころか、恐ろしく停滞する現実が描かれています。だからこそ、その中で少しずつでも足掻いていくキャラクター達が生命を持っている人間の様に、魅力的に映るんですね。 失敗も多いけれど、人間は何度でも立ち上がることが出来るということを体現するキャラクターばかりです。



 ■映画的な映像

 先ほどからドラマチックでないドラマチックでないと言っていますが、決して退屈な映画ではありませんでした。逃げ場なく停滞する、会話劇による精神的にキツイ物語な今作ですが、それを非常にスマートかつ映画的に魅せる様々な工夫によって全く退屈することなく、共感を持って観ることが出来たんですね。目立った工夫は「会話状態の見せ方」「音楽の使い方」「意識を向けさせる所作の数々」です。


 前述した通り会話劇が多いのですが、その際の画作りが見事の一言。「顔を見て話せない石田」の視点になっていて、話し相手の顔が絶妙に見えないんですよ!これによって彼が誰に心を開いているのか分かりますし、この状態でのコミュニケーションの緊張感が感覚的に分かる様になっているので、会話劇だとしても全く飽きないんですね。 

会話中の画作りにおいてもう一つ膝を打ったのは、傘を使った演出でした。これも心を開いているかどうかを示す物なのですが、キャラクター達が意識的に動かしているのでより分かりやすいんですね。何より小道具で関係性を示すというのがとても映画らしい!


 陰湿な話を青春物語の様に魅せているのは、何と言っても音楽の使い方でしょう。これに関しては的確に表しているツイートがあるので、引用させて頂きます。



 意識を向けさせる所作の数々に関しては、枚挙に暇がありません。髪の毛の動きや服の翻り一つとっても見惚れてしまうようです。いいな!と思って覚えているものを列挙すると、次の通りになります。

 ・服のタグを外に出して着る石田 

・植野の髪の動き

 ・マリアの成長?少し頭身が上がっている 

・ちぎったパンのパンっぽさ 

・しそジュースを氷入りグラスにいれる場面 

・成長した佐原のファッション 

・結弦のけだるそうな動き

 ・硝子の母親のシワ 

・取っ組み合いの喧嘩のリアルさ 

・水に濡れた後に乾いたノートのしわくちゃ加減 




 いじめや障害者を題材にしているということでそのエグさが際立って伝わっている今作ですが、重要なのはその点では無かったんですね。むしろコミュニケーションの素晴らしさや人間という存在の可能性、そういったものを等身大のキャラクター達で分かりやすく描き切った、人間賛歌映画の傑作だったんです。そしてこれは、日本でしか描けない人間賛歌の物語であった様に思えます。

正に日本版の「素晴らしき哉、人生!」であると言えるでしょう。




 ■超個人的な感想 

良かった点 

①笑える描写があること

 ②公平な描き方がされていたこと

 ③希望に満ちて終わること


 ①笑える描写があること 

永束周りは劇場でも笑いが起こっていて、雰囲気を軽くしてくれたのは嬉しかったですね。こういう重い作品こそ、映画的な笑いのシーンが必要であると思います。


 ②公平な描き方がされていたこと 

「こいつが一番悪い!」様に描かれていた主要キャラクターは皆無だったため、フラットな視点で見ることが出来ました。現実においても、絶対的な悪者と言うのはそうそういませんからね。誰もが悪く、誰もが良い。だからこそコミュニケーションで相互理解を行う必要があるのですから。


 ③希望に満ちて終わること 

これは本当に嬉しかった…!この絵柄で絶望的な終わりだと相当精神を抉られますからね…。戯画化されるとよりきついんです。石田たち子供世代だけでなく、母親たちも繋がって終わるのは安心しました…。 



 残念だった点

 ①ご都合主義展開

 ②フランスパンを選び続ける石田

 ③悪役過ぎる小学校


 ①ご都合主義展開 断絶の際に全員橋の上にいたり、石田を助けたのが島田達だったり、割とご都合主義的な展開が多かった印象があります。あとは遊園地において横並びで歩くところですね。あれは映像のご都合主義ですが、実際やられると超迷惑なので辞めて頂きたい…。


 ②フランスパンを選び続ける石田 

石田!そのセンスは残念だぞ!確かに量はあるけど!


 ③悪役過ぎる小学校 

公平な描き分けがされる中で、唯一完全な悪役として描かれるのが小学校側。まぁ環境ですし仕方ないかもですが、あの教師はどう見ても悪党。原作もそのようですが…。個人的にかなりノイズでしたね。 




題材が重いとか劇場数が少ないとかTwitterで色々問題になってるとかいう理由で観ないのは非常にもったいない大傑作なので、是非劇場でご覧ください!本当に、魂を揺さぶられますよ!



■合わせて読みたい

「聲の形」がコミュニケーションを通して人間の素晴らしさを描いたのなら、出会いと意志を通して人間の素晴らしさを描いたのが「君の名は。」。凄まじい手のひら返し感想です。

「何者」もまた、コミュニケーションの映画だといえるでしょう。しかし、私が着目したのは異なる点でした。

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