映画感想:「クリード チャンプを継ぐ男」 ~受け継がれるロッキーの魂と新シリーズの誕生~



ごきげんよう。

光光太郎です。


私は以前から父にロッキーシリーズを見せられていました。それこそ、物心つく前から「ロッキー3」を観ていたと思います。高校生までは何とも思っていませんでしたが、大学に入り、色々な映画を観たり話を聞くうちに、ロッキーシリーズとシルベスター・スタローンの事を知っていきました。ロッキーの物語=制作者の物語=スタローンの物語、そして近年のスタローン映画=スタローン自身という図式を知った上で「ロッキー」や「ロッキー・ザ・ファイナル」を観返すと、涙を堪えきれません…。


そんな中鑑賞してきた、ロッキーシリーズの続編にして新章開幕作品である


クリード チャンプを継ぐ男


のレビューをしていきたいと思います。いやぁもう…予想とは全く異なる部分でガツンと涙をひねられました…。ネタバレ、ガンガンします!





■あらすじ

ロッキーのライバルであり盟友であったアポロ・クリードの息子アドニス・ジョンソンが主人公となり、スタローン演じるロッキーもセコンドとして登場する。自分が生まれる前に死んでしまったため、父アポロ・クリードについて良く知らないまま育ったアドニスだったが、彼には父から受け継いだボクシングの才能があった。亡き父が伝説的な戦いを繰り広げたフィラデルフィアの地に降り立ったアドニスは、父と死闘を繰り広げた男、ロッキー・バルボアにトレーナーになってほしいと頼む。ボクシングから身を引いていたロッキーは、アドニスの中にアポロと同じ強さを見出し、トレーナー役を引き受ける。 (映画.comより引用) 



■概要

1976年に公開された「ロッキー」から始まり、「ロッキー2」「ロッキー3」「ロッキー4/炎の友情」「ロッキー5/最後のドラマ」「ロッキー・ザ・ファイナル」に続くシリーズ7作目にして、新しい「クリード」シリーズの幕開けとして制作されたのが、「クリード チャンプを継ぐ男」です。


ロッキーシリーズは2006年の「ロッキー・ザ・ファイナル」で有終の美を飾ったかに思えましたが、今回見事復活を遂げたわけですね。いや本当に、正に「最高の終わり」を描いた「ロッキー・ザ・ファイナル」の後にまだ作品が作られるなんて…。

ロッキーシリーズ全ての脚本を描き、主演し続け、ロッキー=スタローンである彼は「もうロッキーは作らない」という意志を持っていましたが、今回の監督、脚本であるライアン・クーグラーの熱意とアイデアに動かされ、新たなロッキーの物語を新世代のスタッフ、演者と共に創り出していくことを決めました。そして、今までロッキーシリーズを作り続けてきた古参スタッフと、ロッキーシリーズに並々ならぬ熱意を持った新世代スタッフ達がチームを組み、「クリード チャンプを継ぐ男」が制作されました。もうこの制作過程自体が「クリード チャンプを継ぐ男」なんですよ!詳しくはパンフレットを見てみて下さい‼激アツですよ!



具体的な感想に入る前に、ロッキーシリーズとは何かについて軽く触れておきたいと思います。言わずと知れた「負け犬達のワンスアゲインもの」の代表格ですね。近年では「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」や「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」等がそれに当たるでしょうし、「ウォーターボーイズ」なんかもその系譜にある作品でしょう。

筋肉スポ根映画と誤解されがちですが、そもそも「ロッキー」という映画は「ボクシング映画」というよりは「自分の思いを貫く」という「人間ドラマ映画」なんです。1作目の「ロッキー」を観てみると分かるのですが、ボクシングシーンはほんの数分しかなく、上映時間のほとんどはロッキーやフィラデルフィアに住む人たちの負け犬人間ドラマ、会話劇にあてられています。そしてそのドラマと人物の思いは試合というクライマックスに向けて集約されていき、ボクシングという「ボロボロになりながらも自らの気持ちを頼りに、孤独に戦うスポーツ」によって物言わぬ演出がなされ、ドラマの最終到達点となります。長い時間をかけて丁寧に描かれてきた会話劇が、物言わぬ拳と拳のぶつかり合い、静かで激しい意地と意地のぶつかり合いによって、これ以上ない程胸を打つ物語として昇華されるんです。ロッキーシリーズでのボクシングはエンターテイメントシーンというより、ドラマを語る場であると言えるでしょう。その為、ロッキーシリーズにおいて「勝敗」はそれほど重要ではありません。重要なのは、ボクシングでのファイトを通じて何を確立できたか、どんな意地を通せたか、です。

つまりロッキーシリーズとは「人間ドラマの集約点としてボクシングがある作品」なんです。しかしこれは、ボクシングというものを置き換えても成立するドラマです。ボクシングの代わりに、仕事や部活を置き換えることもできるでしょう。様々な負け犬たちが自分たちの存在を示す物語として、どんなに打ち負かされても自分の思いを貫き通す物語として、誰にでも当てはまる普遍的なドラマ…それがロッキーシリーズなんです。


自分はクズじゃない…愛する人が愛してくれる自分をクズにしてはいけない…自分は人間だ…何度地面に叩きつけられても、また這い上がり、根性で立ち続ける…立ち続ける事で、自分が真っ当な人間であると証明するんだ…!

そういう物語なんですよ!ロッキーシリーズは!これは老若男女、どんな人でも胸を熱くする、人間賛歌の物語なんです‼そしてこれは、形を変えて「クリード チャンプを継ぐ男」に受け継がれていました。



振り返りも終わったところで、「クリード チャンプを継ぐ男」とはどんな物語だったのか?について書いていきたいと思います。

「クリード チャンプを継ぐ男」 で描きたかったことは「ロッキーの魂を受け継ぐ、現代の物語」であると思います。ロッキーの魂とは「どんな困難があっても、どんなに打ち倒されても、決して諦めず自分の思いを貫くこと」であり、現代の物語とは「モノが満たされた時代で『自分』を求める若者と、『自分』を思い出す老人の物語」です。何とも捉えずらい話になってきたので、詳しく説明するために、アドニスの視点でストーリーを順を追って思い出していきたいと思います。1回しか観ていないので、抜け漏れあると思います…。



アドニスはアポロと愛人の子であり、父を知らずに育った。施設で生活していたところをアポロの妻、メアリー・アンに引き取られるところから、物語は始まる。この時点ですでに、たぐいまれなるボクサーの血を感じるファイトが展開される。


舞台は15年後、成長したアドニスはメキシコで孤独にボクシングをしていた。勝利かと思われた瞬間、都会のオフィスと彼のシャツ姿が映る。彼の本職は別にあった。若くして昇進するほど有能で、ボクシングなどしなくとも裕福に名誉ある生活が送れるようだ。しかし彼は辞表を出し、ボクシングへの道へ進んでいくことを決心する。アポロの試合を真似るところからも、知らぬ父の血がハッキリと受け継がれていることが分かる。彼自身も、分かるのだ。自分はボクサーである…と。


しかし、現実は甘くはない。アポロの息子としか見られず話も聞いてくれない地元のジムでプロのボクサーにKOされたアドニスは、父アポロのライバルであった伝説のボクサー「ロッキー」がいるフィラデルフィアに向かうため、家を出る決心をする。メアリー・アンはそれを断固として許さず、ボクシングへの道を行くのなら連絡はするなと冷たく言い放つ。ボクシングで死んだアポロの様になってほしくないからだ。しかし、アドニスのボクシングへの思いは変わることは無かった。何不自由なく暮らしてきた「勝ち組」である彼だが、鬱屈した思いに囚われていたのだ。目指すべき信念が見えない。夢を共に追う友もいない。金と能力以外、彼には何もない。しかし、その金と能力は、彼にとって何の価値もないものだった。


フィラデルフィアへと渡ったアドニスは、ロッキーへコーチングを頼み込む。ロッキーは首を縦に振らないが、クリードのキツツキの様にしつこい頼み込みに折れ、彼のコーチングを請け負うことに。また、同じアパートに住み、難聴を患いながらも歌手の夢を突き進むビアンカとも知り合う。困難に立ち向かい自分を貫く彼女にクリードは惹かれていき、ビアンカもまた、どこか喪失感を持ちながら素直な気持ちをぶつけるアドニスに惹かれていく。アポロの息子であることをロッキー以外には隠し、衝突しながらも、ロッキーとの出会いを通してジムやフィラデルフィアでの仲間も増えていき、孤独で袋小路に陥っていたクリードの世界が、だんだんと開けていく。

急遽組まれた試合にもロッキーとジムチームの献身的なサポート、そしてアドニス自身のボクシングの才能によって何とか打ち勝つことができ、アドニスは自分の人生を生き始めていた。彼の孤独で鬱屈した人生は、ロッキーという「父親殺し」にして「伝説のボクサー」との出会いによって、間違いなく変わり始めていた。しかし、ここでもまた、アポロという見えない父の影に囚われることになる。


勝利をおさめたのもつかの間、彼がアポロの息子であることがマスコミによって暴露、拡散されてしまう。そしてその噂を聞きつけた世界チャンプのマネージャーが、チャンプが銃所持で投獄される前の最後の試合に、「アドニス・クリード」との大戦を申し込んできたのだ。父の影がちらつきながらもチャンピオンとの試合にファイトを燃やし、特訓を重ねるアドニスとロッキー。しかし、ロッキーはガンに犯され、自ら死の道を選ぼうとしていた。アドニスに病気のことを指摘されると、疑似親子さながらの関係を築いていたアドニスに対して冷たく当たってしまう。ビアンカとの関係も、自らが父の幻影に囚われ取り乱したことで崩れてしまう。


フィラデルフィアで自分を確立しつつあった彼はまたしても、世間と自分が抱く「父アポロの幻影」に囚われ、自暴自棄になってしまう。自分は父とは関係ない、自分は自分だ…そう思えば思うほど空回りを繰り返し、遂に彼は一般人に拳を振るってしまう。

見知らぬ父に血と人生を支配された怒りに燃えるアドニスと、未だ生き長らえる自分に死をもたらそうとするロッキー…。失意の底に落ちたアドニスとロッキーは、不器用なぶつかり合いを繰り返す。そしてアドニスは世間と自分から「アポロの幻影」を振り払うため、ロッキーは自分を必要としているアドニスを支えるため、2人は共に戦っていくことを誓い合う。


2人が戦う相手は「チャンピオン」でもなく「病気」でもなく、「自分自身」である。


アドニスは特訓を、ロッキーは闘病をし、共に試合へ向けて努力していく。2人の戦いは、劇中冒頭のような孤独なものではない。ジムやフィラデルフィアの仲間、何よりも2人同士がついている。ロッキーの仲介もあってビアンカとも仲直りをすることができた。そしてアドニスはメアリー・アンからの「自分の伝説を作りなさい」というメッセージと、父アポロのトレードマークであり、自分の名前が刻まれた星条旗柄のトランクスを受け取る。

ビアンカとの恋、ジムチームとの特訓、家族の思い、ロッキーとの友情、そして自らを確立するため…アドニスの全てのドラマが、チャンピオンとの決戦に集約されていく。


チャンピオンの圧勝と思われた試合はアドニスの善戦によって持久戦となった。しかしチャンピオンの猛烈な連打を受け続け満身創痍のアドニスは、11ラウンドにてチャンピオンのパンチを浴び、ダウン、失神してしまう。しかし、彼の努力が、ロッキーとの努力の日々が、何よりも父アポロの血が、彼を立たせた。そして12ラウンド、ロッキーのテーマが高らかになる中、アドニスの渾身のパンチが決まり、チャンピオンはダウンする。ギリギリのゴングによってKOにはならず、試合はチャンピオンの判定勝ちに終わった。しかし、アドニスは自らのファイトによってチャンピオンと友情を育み、世間と自分が抱く父アポロの幻影を振り払うことに成功し、父アポロの血を完全に受け入れることができた。もはやアドニスにとって父アポロ、そして「クリード」という性は自分を縛る幻影ではなく、誇りを持ってその名を名乗れる、力を分けてくれる存在になったのだ。ここで初めて、アドニスは本当の意味で「アドニス・クリード」になったのだ。彼は多くの仲間や観衆、家族に支えられ、自分という存在を確立し、自分の物語を描き出したのである。

チャンプから、ロッキーから、そしてアポロから、アドニスは正に「チャンプを継ぐ男」になった。


試合の後、アドニスとロッキーは、フィラデルフィア美術館の階段を上った。ふらふらになりながらも登り切ったロッキーは、ここから人生が見えるという。ロッキーという人生と魂が、正にロッキー的な場所で、アドニスへと受け継がれた場面で映画は幕を閉じる。




どんなに世間から罵倒されても、色眼鏡で見られても、自分という存在を確立させ、自分という物語を描きだすために奮闘するお話。そして自分とは、必ずしも自分一人で確立するものではなく、友やライバル、恋人、そして家族がいるからこそ確立するものであるということが示されていました。(恵まれた環境ながら喪失感と孤独の中で生きていた序盤とは対照的)

ロッキー1作目が「どん底の負け犬が這い上がる話」として普遍的であったように、この「クリード チャンプを継ぐ男」も、鬱屈した若者が世間と交わることで自分を確立していくお話として、普遍的であると思います。


しかし、「クリード チャンプを継ぐ男」はロッキーの物語でもありました。そしてそれは、スタローンの物語であると観ることも出来ます。「ロッキー・ザ・ファイナル」では勇ましいボクシングを見せていた彼ですが、今回は晩年を迎え、精も根も尽き果てた状態で登場します。

ロッキーの物語を詳しく説明するために今一度、ロッキー視点でさらりとストーリーを追っていきたいと思います。


愛する妻であるエイドリアンも親友ポーリーも去り、息子は「ロッキーの息子」と呼ばれることを避け、自分の下を離れた。一度はボクシングに復帰もしたが、体の限界に勝つことは出来ない。どこか諦めと孤独を感じるような雰囲気が、ロッキーの周りに漂う。彼もまた、長い時間と肉体的衰えから「自分の姿」を見失っていたのかもしれない。


しかし、アドニスとの疑似家族的交流から、彼の事を大切に思うようになっていく。また、彼との特訓を通じてボクシングの世界に触れ、活き活きとしていく。やはり彼の生きる世界はボクシングであるということを感じる。


ロッキーにとってアドニスは「しつこい若者」であり「親友アポロの息子」であり「見殺しにした相手の息子」である。アポロへの謝罪の念もあり、どうしても見過ごせなかったのだろう。


アドニスとチャンピオンの試合が決まり特訓を続ける最中、ロッキーはガンに犯される。治療すれば回復の見込みはあるが、彼は妻のいる世界に行くため、治療を拒む。それはまるで、生きながらえた今の自分を否定しているように映る。しかし、アドニスとの不器用なやり取りを経て、今の自分を必要としてくれるアドニスと共に生き抜く=病魔と戦い抜く覚悟を決める。彼もまた、困難な戦いの中で自分の思いを貫く覚悟をしたのだ。


ここからのスタローンの「闘病演技」が凄まじいの一言。殺しても死ななそうな老人を演じ続けたスタローンが正に「死期迫る老人」を演じ切っていた。ドンドン白髪になり、毛も少なくなり、体にも表情にも生気が無くなっていく…。映画冒頭の彼とはまるで別人だ。これまでロッキーはリングで戦ってきたが、今度は見えない敵「病気」との死闘を繰り広げている。この戦いに勝ちは無い。向こうが諦めるまで続く絶望的な試合だ。それでもロッキーはアドニスとの約束を胸に、辛い化学治療に挑み、介助を必要とするほど衰弱しながらも、アドニスにエールを送り続け、遂にはセコンドについて共に戦うまでに健闘した。彼は今回も、「生き切る」という自分の思いを貫くために、生物である人間にとって最も困難な戦いに耐え切った。


最後、ふらふらになりながらも階段を登り切り、アドニスと共にフィラデルフィアを見るシーンで映画は幕を閉じる。2人は戦いきり、ロッキーは自分を再び取り戻したのだ。



昔の自分も周囲も消え、もはや生き長らえていることを呪ってすらいるロッキーは、アドニスとの出会いを通じて、もう一度自分と向き合っていきます。そしてアドニスの為に「生き切る」という思いを貫き、戦いました。ボクシングそれ自体を行うことで自分自身や家族と向き合った、従来の様なファイトでドラマを語る物語であった「ロッキー・ザ・ファイナル」とは全く異なり、精神と肉体そのもので「病気」に立ち向かい、今の自分を見つめなおす物語を描いたのが「クリード チャンプを継ぐ男」と言えるでしょう。ボクシングをしなくとも、ロッキーはロッキーであったのです。


この晩年描写は、嫌が応にもスタローン自身と重ねて見てしまいます。前述した通り、殺しても死ななそうな老人ばかり演じてきた彼を、私は「そのような人物」として捉えてしまっていました。そんなわけはないのに…。今回のスタローンの「枯れ演技」には「リアル」が宿っていました。役者として彼を見続けてきた私にとって、役として枯れ演技をするスタローンには、どうしようもなくリアルな「枯れ」を感じてしまうんですね…。役として演じるからこそ、スタローンの現実的な「枯れ」が伝わるんです…。




振り返ると「クリード チャンプを継ぐ男」とは、次のような物語であったと言えます。

●ロッキーシリーズを現代で描く「アドニス・クリード」の物語

モノに満たされた時代で、自分にとって価値あるものを見つけ、自分を確立させ始める物語。世間の価値観にもめげず、自分という物語を語りだすために立ち向かう物語。

●ロッキーシリーズの後日談としての「ロッキー・バルボア」の物語

精も根も尽き果てた今の自分を見つめなおし、生き抜くことを決意する物語。


この二者の物語を通して、年代に関係なく、自分を確立させることの困難さと、それに

立ち向かう尊さを描いています。そのためには、人と支え合うことが必要であることも。

モノに溢れ、様々な価値観が溢れ、自分がどう生きていけば分からない時代に、自己実現を成し遂げるために苦心するアドニスの姿は、胸を打つものがあるのではないでしょうか。

そして、この映画でのロッキーの姿は、人生の晩年を迎え、今の自分に価値を見出せないでいる人にとって、力強く心に残るのではないでしょうか。


「クリード チャンプを継ぐ男」は、今に生きる若者と、ロッキーに夢を見た人たちへの、人生賛歌を伝える物語であると思います。今、もう一度、自分というものを考えてみたくなる映画でした。




しかし「クリード チャンプを継ぐ男」は、ロッキーシリーズから脱却して新たな物語を語りだせたのでしょうか?私は出来ていないと思います。今はまだ、ロッキーでありクリードという作品であり、ラストでもそれがよく分かります。勿論、そこが良い作品であることは間違いないのですが…。

シリーズのファンとしてはどうしても、ロッキーの晩年描写と闘病に目が向いてしまいがちでした。また、ボクシングにドラマを集約することが大事であることは分かるのですが、ロッキー自身のドラマはボクシングに集約されないのではないでしょうか?確かに、アドニスとロッキーのドラマはボクシングに集約されますが、ロッキーの今回のドラマは「闘病」であり、アドニスの試合は区切りにしか過ぎないのではないでしょうか? 

ロッキーの魂が完全に受け継がれ、アドニス自身の物語へ完全シフトしていくことは、今後展開される続編に期待したいところです。



■感想

前置きが長くなりましたが、ここから個人的な感想に入っていきたいと思います。

面白いと思ったところは次の3点です。

①長回しワンショット

②肉体描写のリアルさ

③ロッキーテーマのタイミング



①長回しワンショット

様々なシーンで長回しワンショット撮影、もしくはワンショットの様に見える映像がみられました。アドニスの初試合までの流れ、プロの初試合での2ラウンドまるまるワンショット撮影、アドニスのランニングシーン等等…。現実をそのまま切り取った映像を観ているような臨場感がありましたね。その撮影によって、アドニスや周りの人物達がキャラクターではなく、一人の人物として捉えられるようになっていたと思います。絵の派手さには欠けますが、描写が淡々と積みあがっていく様には思わず心が動きます。ここは「ロッキー」での淡々とした引き画描写に通ずるものがありますね。


②肉体描写のリアルさ

アドニスを演じたマイケル・B・ジョーダンの肉体は絞り込まれており、キレッキレの見惚れる肉体となっていました。全盛期のロッキーのような「逞しい筋肉」というよりも「研ぎ澄まされた筋肉」という感じでしょうか。劇中に登場するどのボクサー(彼らは全て本物のボクサーが演じている)よりも、フィクション映えする肉体だと言えるでしょう。その肉体が披露される特訓シーンが全編に渡って展開されているので、それを観ているだけでもこの映画を観る価値があると言えるでしょう。ボクシングシーンは言わずもがな…です‼


③ロッキーテーマのタイミング

今回は特訓シーンでもおなじみのテーマは流れません。ではどこで流れるかというと、最終決戦の最終ラウンドです‼アドニスのドラマが全て集約されていくシーンで流れるロッキーテーマは激アツです‼ここは理屈じゃないんですよ‼‼



続いて、残念だった点について書いていきます。

①スタローンがどうしても目立つ

②ヒロインが地味

③息子の扱い



①スタローンがどうしても目立つ

闘病シーンがあまりにも衝撃的&胸を打つので、アドニスのドラマが弱くなっている印象がありました。そしてロッキー自身のドラマはボクシングに集約されず延ばされる為、アドニスのドラマが終わってもロッキーのドラマが終わらないという事態に…。新シリーズの幕開けとして、前シリーズの主役であるロッキーのドラマが続くというのはどうなのでしょうか…。これでは次回作にもロッキー自身のドラマを期待してしまいます。新しいドラマを望んでいた分、残念です。


②ヒロインが地味

今回のヒロインであるビアンカですが、どうにもパッとしない印象で終わってしまった感があります。まず見た目に既視感がありますし、シンガーを目指すというのも新鮮味に欠けます。難聴設定が活かされる場面もそう多くなく…。結局、都合にお構いなく真実を求めまくる人物としての描写が強く印象に残ってしまう結果に…。内気ながら強烈な印象を残したエイドリアンとは対照的になってしまいました。

強く自分を貫く人物としての魅力は十二分にあった分、どうにも活かされ切れずに嫌な部分が悪目立ちしてしまっていたのが残念でなりません。


③息子の存在

劇中で補足はありますが「ロッキー・ザ・ファイナル」であれだけやっていて、ロッキーも息子もどうしてしまったんだ…。現実の壁というやつですかね…。せめて闘病してる時くらい帰ってくるべきだと思うんですよ。そうすれば実子と疑似息子とのドラマも出来たのに…。あの扱いはどうしても納得できませんでした。




いい所もあります。引っかかるところもあります。完璧とは言えませんし、そこはどうなんだといいたいところも山ほどあります。しかし、ロッキーシリーズとはもともと完璧な映画群ではありません。その歪さ、スタローンという人間性、そして噛めば噛むほど味が出る普遍的なドラマ込みで、長年愛されているシリーズです。だとすれば、この「クリード チャンプを継ぐ男」は間違いなく「ロッキーシリーズ」の魂を受け継いでいます。制作者の並々ならぬ思いがスタローンを動かし、スタッフを動かし、観客の心を動かしたのだと思います。

今後も応援していきたい、観返したり思い返したりしたい、大切な作品になりました。




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