映画感想:ブラック・スキャンダル ~紛れもない「現実」~



ごきげんよう。

光光太郎です。


私が住む地域ではここのところ雪が続いておりまして、なかなか映画館に行くのが困難になっています。というか、大学へ行くにも毎回毎回バスを使わざるを得ない状況です。

そんな状況に嫌気がさしたので、「家⇒大学⇒映画館⇒家」というコースを歩き、用事を終わらせていく日を作りました。計4時間位歩きましたね。

そんなわけで今回は、雪の中歩いて観に行った


ブラック・スキャンダル


のネタバレ感想を書いていきたいと思います。




■あらすじ

1970年代、サウス・ボストン。FBI捜査官コノリー(ジョエル・エドガートン)はアイルランド系マフィアのボスであるジェームズ・"ホワイティ"・バルジャー(ジョニー・デップ)に、共通の敵であるイタリア系マフィアを協力して排除しようと持ちかける。しかし歯止めのきかなくなったホワイティ=ジミーは法の網をかいくぐって絶大な権力を握るようになり、ボストンで最も危険なギャングへとのし上がっていく。(映画.comより引用)


■概要

ジョニー・デップとベネディクト・カンバーバッチが共演ということでかなり話題を集めていた「ブラック・スキャンダル」。年明け前からかなりの数の予告が流れていました。その予告自体のテンポの良さ、そして楽曲のカッコよさ等からこの映画に惹かれ観ようと思ったのですが、かなり予想とは異なる作風でした。私は「ギャングとFBIと政治家がかっこよく怖く悪だくみをする映画」だと思っていたのですが、実際は「実話を淡々と描く実録犯罪映画」だったんですね。なのでこの映画、ジョニー・デップは好きだけど映画はあんまり観ない、という方が観ると、確実に面食らう作品です。というか、そういう方が観ても絶対楽しくないと思います。


監督はスコット・クーパーさんという方で、私は全く過去作を観たことがありませんでした。作品数自体もまだ少な目で、この「ブラック・スキャンダル」が三本目の監督作品になっています。脚本はマーク・マルークさんとジェズ・バターワースさんという方々が共同で製作しています。二者共に、クライムサスペンスを得意とする脚本家さんのようです。その他にも様々な実力派スタッフが集結しており、この映画にかける力の入れようが半端ではないことが伺えます。


役者もスタッフも実力派が集まって製作された今作「ブラック・スキャンダル」は、前述したように「実話を淡々と描く実録犯罪映画」でした。予告で感じたような軽快さ、エンターテイメント性、悪だくみ感は無く、淡々と、ひたすらに淡々と事実を描いていく作品だったんです。それは、この映画が「ジミーの共犯者達による証言」で進行していくことからもよく分かります。

あまりにも淡々と描かれるので正直なところ序盤は退屈、終わってみるとガツンとくるものはありましたが、エンターテイメント性は限りなくゼロでした…。しかし、観終わってからもずっと考えてしまうような、むしろ強烈なものを叩きつけて「考えさせること」を狙った映画作りがなされているなと感じたんですね。この映画が狙った「考えさせること」、つまり物語の軸は「誰にでも起こりうる、変貌」「この映画は現実だということ」であると思います。



「ブラック・スキャンダル」は主にジミー(ジョニー・デップ)を主役におき、FBI捜査官のコノリー(ジョエル・エドガートン)と政治家でありジミーの弟であるビリー(ベネディクト・カンバーバッチ)を巻き込みながら、ジミーの悪行と狂気への変貌、そして登場人物達の転落を描いていく作品です。しかし彼らは、私たちが抱くような思いを持ち、私たちが普段遭遇するような事象に会うことで変貌し、転落して行きます。フィクションの出来事ではなく、日常起こりうることで、変貌していくのです。


ジミーは最初、あくまでもルールを守る悪として登場します。平然と殺人を犯すほどに凶悪ではありましたが、圧倒的な狂気は感じませんでした。むしろ、ギャングという生き方に対して必死に向き合い、その世界で強く生きようとしているような…そんな姿を感じたんですね。筋の通らないことは見せない、直接的な暴言も吐かない、裏切者は即始末、非常にロジカルでストイックかつ家族思いな人物…序盤はそんな印象でした。

しかし、息子の死、母親の死という「身近な出来事」が、彼を絶望させ、狂わせていきます。そして彼は、明らかに人目につきそうな場所で殺人を犯してしまい、自らのルールを破ってしまいます。そしてコノリーからの保護もあり、その狂行は止まることを知らず、自らの凶悪さを周囲へぶつけます。正に自暴自棄。そして、彼は孤独になっていきます…。

子供を思い、母親を思い、弟を思っていた悪党は、肉親の死によって狂気へ変貌していきました。そんな彼は、かつての仲間から「根っからの犯罪者」と称されます。ジミーは犯罪者であり、凶悪な悪党であることは事実ですが、「根っから」なのでしょうか…。弟を心配して電話をかける人物は、根っからの犯罪者なのでしょうか?彼は犯罪のはびこる街で生まれ、強く生き残る最適解を彼なりに実行していただけではないのか?そんな風に考えたくなります。

ジミーが悪だから狂気へと変貌したわけではなく、肉親の死という、誰もが耐え難い出来事に絶望したからこそ、狂気へと変貌してしまったのです。それは、誰にでも起こり得ることです。誰もが、狂気へと落ちる紙一重を生きているのではないでしょうか?そんな事を、ついつい考えてしまいます。




FBIのコノリーは、正義から悪へと変貌していきました。彼は「忠誠心」というものに正義を見出し、強い者に忠誠を尽くすことが、彼の生きる処世術だったのだと思います。だからこそ彼は、犯罪の温床で育ったのにも関わらず、刑事になる道を選んだのだと…。若しくは、忠誠心を抱けるほどの相手に妄信することで、自分の弱さを隠そうとしていたのか…。

しかし、彼が抱いていたであろう警察や国家というものへの忠誠は、ジミーへの忠誠心、妄執へと変わっていきました。戻った、と言う方が正しいですね。彼は自分の処世術を最後の最後まで貫いたからこそ、正義から悪へと変貌していきました。それは、誰にでも起こり得る事ではないでしょうか?



ジミーの弟ビリーは、政治家を目指しました。暴力ではなく、権力。暗い力ではなく、公の力を持つことで強く生きようとしてきたのでしょう。彼は努力し、家庭を持ち、議員になり、傍から見ても幸せな「成功者」となりました。そして、コノリーやジミーの黒い繋がりに関しても毅然とした態度を取り、あくまでも関与はしませんでした。

しかし、彼が抱いていたほんの少しの、繋がりを暴露しないという兄と友への思いやりが、結果として両者の、そして自分の破滅を招きました。彼は劇中、目に見えるような形で変貌することはありませんでしたが、政治家になっていた時点で彼は変貌していたのでしょう。


ギャングだから、FBIだから、政治家だから、特殊な人だったから変貌したわけではありません。誰にでも起こりうる理由で、彼らは変わっていったに過ぎないんです。私達も、少しのきっかけでコロコロと、確実に、大きく、変貌していったはずです。「ブラック・スキャンダル」で描かれていた変貌は、私達が生きるこの現実で起こり得ることです。




予告や宣伝でも大々的に言われていますが、この映画は実話を基にしており「共犯者たちの証言」で進行していきます。また、何故ギャングとして生きることになったのか、何故FBIになったのか、何故政治家になったのか…そこが語られることはありません。登場人物達が腹を割って話すシーンもごくわずか、全員が本音を隠します。心を許して心情を吐露することも殆どありません。弱みを見せ合い、相手を思いやり、歩み寄ることもしません。心が描かれることはなく、表面上の出来事のみで進行していくのです。


また撮影方法に関しても、エモーショナルに、エンターテイメントを感じるようなカメラワークは皆無でした。パンや激しいカメラ移動は殆どなく、じっと動かず、ゆっくりとしたズームアップとズームアウトが多用されていました。場面を過剰に盛り上げることはせず、あくまでも現実の空気感そのままを切り取るような…。

これらの作劇、演出、撮影方法、そして「実際の写真や監視カメラ映像を見せる」エンドクレジットからも明らかなように、この映画は淡々と「起こった事実」を描こうとしていることが分かります。そして観客に対して、この映画を「現実」だと強烈に認識させようとしています。

登場人物の心情も背景もお構いなし、カメラワークで動きのある画にすることもしない。淡々と、退屈さを感じるほどに淡々と、事実のみを描いていきます。しかし、その事実とは、この物語の主人公達であるジミー、コノリー、ビリーの視点で語られるわけではありません。共犯者の証言、そして「写真やカメラ映像」といった、外部の視点で語られている映画だという構造になっているので、登場人物達が本当は何を思っていたのか、それが明示されることはないんですね。


現実とは、起こった事実のみで動いています。その中で人の意思がストレートに発現することは、ごくまれでしょう。自分の思いをさらけ出すことなく、思いを静かに行動へのせて動いているはずです。私達はそれをくみ取りながら、生きていくしかありません。

つまり、「ブラック・スキャンダル」は、そういった現実の世界で起こった「実話」を、作り物である映画の中で最大限「現実」として表現し、観客へ「実話」を「現実」として叩きつけることが試みられている映画なのだと思います。





映画の中で「現実」を描き、その現実の中で「誰にでも起こり得る変貌」を見せつけ、最後にこの物語が紛れもない「現実」であることを強烈に叩き込む…。ニュースやワイドショーよりも、事実を「現実」として認識させられました。映画はこんなことまで出来るのかと、感服するばかりです。観て面白かった、楽しかったとはびたいち思いませんが、意義深い映画を観たなという思いが強いです。ほんっとうに、まったく、エンターテイメントしてませんでしたけどね‼‼‼



■感想

ここからは個人的な感想を書いていきます。

面白いと思ったのは次の3点です。

①息をさせないジョニー・デップの怪演

②コノリーのスーツとジミーのファッション

③アントマンのヴィランが善玉に



①息をさせないジョニー・デップの怪演

「ブラック・スキャンダル」を語る上で、この要素は外せないでしょう。私はジョニー・デップファンというわけではありませんが、ジョニー・デップにはこういう役をもっともっとやってほしいですね!

直接暴力を振るうシーンはほぼないのですがだからこそ恐ろしいというか…。瞳の奥が暗く、全身から漂う凶悪オーラ…そして心底恐ろしい「脅し」シーン。あの「脅し」では直接的な言葉は言っていないのですが、本当に恐ろしい…息も出来ないほどに緊張してしまいました。あの場にだけは絶対にいたくないですね…。


②コノリーのスーツとジミーのファッション

この映画は20年に渡って物語が語られていくのですが、そこで見ることが出来るコノリーとジミーのファッションがとても魅力的でした。コノリーは成金になっていったことがよく分かるスーツを着ていくのですが、そのスーツの質感が、またイイんですねぇ…。スクリーンからも着心地の良さが伝わってくるというか…コノリーが絶妙に太くスーツやベストがぱっつんぱっつんなことで、素材感がよく分かるんですよ。ジミーはもう「ザ・ギャングファッション」な感じで。あの黒い革ジャン、欲しいですね!車とも相まっていい感じです。(しかしあの車、どことなく「ロッキー」でガッツォが乗っていたものに似ている気がする…)


③アントマンのヴィランが善玉に

内容と全く関係ありませんが、「アントマン」でヴィランを演じていた方が「ブラック・スキャンダル」では完全な善玉検事として出演しているんですね。物語としては緊張感のある展開なのですが、そちらの方に気が行ってしまいました。あの方、口と鼻が特徴的ですよね。あと頭が。



次に残念だった点3つについて書いていきます。

①雰囲気が違いすぎる予告

②話に絡まないベネディクト・カンバーバッチ

③暴力シーンの恐ろしさ不足


①雰囲気が違いすぎる予告

初めの方でも書きましたが、これはいくら何でも雰囲気が違いすぎると思うんですよ。あんな素晴らしい予告を見せられたら、三者の悪だくみをスタイリッシュに悪悪しく描く映画だと思ってしまいますよ‼あの予告で観に行こうと思う人は多くいると思いますが、満足度にまで影響を及ぼしてしまうほどに雰囲気の異なる予告というのはいかがなものでしょうか…。あのかっこよすぎる曲も劇中使われませんし…残念です。


②話に絡まないベネディクト・カンバーバッチ

何故ここにベネディクト・カンバーバッチを使ったんだと言いたくなるほど、本筋への絡みが無いんですねぇ…。予告でも大々的に出ていたのに、彼は全く悪だくみをしないんですよ。協力要請はことごとく断りますしね。裏で何か動いているような事をほのめかすシーンはありましたが、もっと悪だくみをする彼が見たかったです…残念。


③暴力シーンの恐ろしさ不足

R15+にふさわしく暴力シーン、殺害シーンがかなりしっかりと描かれるのですが、正直あまり怖くなかったですね…。ジョニー・デップの怪演に押されてしまっている印象がどうしても強いです。人の死に際や断末魔はとても素晴らしかったのですが、肝心の暴力がどうにも淡泊に描かれすぎていると思います。急に始まり急に終わる…それも現実らしいと言えばそうかもしれませんが、暴力ってもっと恐ろしいものだと思うんですよ…残念です。





エンターテイメント性は皆無で退屈な部分も多い作品ですが、観客に対してガツンと強烈なものを叩きつけてくる映画ではありました。エンドクレジット含めて上手く呼吸できない場面が何度もありましたし。製作されたこと、観ることに大きな意義を感じられる映画でありました。


ただ、ほんっとうにエンターテイメントしてないからね!そこは注意‼


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